苦境からの出発
その時、大きく地面がゆれた。後に十勝沖地震と呼ばれるマグニチュード8.1の大地震であった。池田は大きな被害を受けた。追い討ちをかけるように翌昭和28年、29年と2年続いて、冷害による凶作にみまわれた。池田の地はかつてない大きな打撃を受けた。
町の財政は震災による12億円の被害に加え、2年間で3000万円をこえる赤字を計上する。
赤字の自治体。町は苦境のどん底にあった。昭和31年には「財政再建団体」の指定を受けることになってしまう。
再建債を発行し、5カ年での返済計画をたてた。給与の引き下げ、軽費の削減、税制の見直し。血の滲むような、努力をした。
熱意が実り、昭和33年には再建債の完済ができた。
この苦境は、しかし、町民総意の町再建の気概となって、人々の心に深く刻み込まれた。
「町に新しい産業を」。
折からの神武景気の追い風も受け、町は新農村計画5カ年計画に着手する。
しかし、耕作に向かない斜面地の多い池田の環境、特に冬の厳しさを前に、新しい産業を模索する動きは難航した。
当時の町長は地元出身の丸谷。就任一期目の若手であった。
丸谷は町内の山野に実る山ブドウに注目した。
子供の頃からごく普通にあるものだった。町民も農作業、造林作業の合間に頬張った、山からの恵みだった。しかし、誰の目にも、ただの野草にしか見えなかった。
「冬の厳しい池田だが、山に育つのなら栽培もできるのではないか。斜面地の活用もできるはずだ」。
丸谷は町内の若い農家に声をかけた。
「ブドウの研究をはじめないか? 所得アップにもつながるはずだ」。
集まった農業青年たちは26名。みな丸谷の熱意にひかれた。
ブドウ愛好会を結成し、山梨、東京方面からポートランド、フレドニア、巨峰など40品種5000本の苗木を導入し、愛好会会員の家で栽培を始めた。
しかし、ほとんどの苗木が春を待たずに枯れた。冬の厳しさが原因だった。
残った苗木も続く冷害で、さらに数が減った。
それでも会員達は栽培を止めなかった。希望をつなぎ辛抱強く栽培を続けた。苦境こそが十勝ワインを産む原動力となっていった。
転機が訪れた。
丸谷はロシアへ飛んだ。そこで、池田よりも厳しい厳寒の地でもブドウが栽培されていることを知った。自信を深めた。
町の職員にも研修させた。農業科学化研究所やドイツに派遣した。
指導をあおいだ当時の農業科学化研究所所長の沢登らと、町内の山ブドウを調査中、調査に加わったひとり、山梨県果販連技術顧問をしていた土屋が、ひと粒の山ブドウを食べて言った。
「これはアムレンシスかもしれないよ」。
アムレンシス、和名をチョウセンヤマブドウ。アムール側流域を中心としたシベリア・アジアなどに自生する山ブドウであった。日本にはないと言われていた。
ロシアの果樹園芸家で生物学者のミチューリンが、ワイン醸造に向いているとされる特性に注目し、このアムレンシスから多くの耐寒性品種を産み出していた。
「ワインになるブドウが、池田で栽培できるかもしれない」
丸谷はさっそく、採取した6本の標本をたずさえ、ハバロフスクの極東農業科学研究所へと向かった。品種の鑑定が目的であった。
結果は「アムレンシス亜系」。
試験ほ場に移植し栽培試験をした結果、特有の形態、醸造用として優れた特性がわかった。
切込みの深い5片葉、葉裏に密生した絨毛、他に比べ秋の紅葉が鮮明、根は横張り性。これは国内に広く自生するほかの山ブドウとは明らかに異なっていた。
酸と糖とのバランスに優れ、耐病性もあった。
何より優れていたのは、その耐寒性であった。マイナス35度にもたえられる品種であった。
「ワインをつくろう」。
丸谷は池田町ブドウ・ブドウ酒研究所を設立した。
前年には十勝池田税務署長から果実酒類の試験製造免許の交付をうけていた。
当時の池田でのワイン作りの環境は、平屋の作業場に中古品の機械、人手による作業という手作り状態であった。国内のワイン醸造技術は、厳寒の池田では適用出来なかった。試行錯誤を繰り返す以外に、道はなかった。
希望と挫折が背中合わせで廻った。そして、そのワインとなった。
後に「十勝ワインアムレンシス」へと続く幻のワイン、「十勝アイヌ山葡萄酒」。
手探りでつくり出した赤ワインが、ブタペスト国際コンペで銅賞を受賞した。
世界で認められるワインとなった。
昭和39年。大地震と凶作の大きな負債を抱えた日から、10年の年月がたっていた。その後、冷害による不作もあったが、ブランデーやシェリー酒の試験醸造免許を取得するなど、酒類製造の本免許を取得する。
ワイン作りを特別会計とし、昭和42年にはワインの市販を開始した。町として本格的な取組みが始められた。
嬉しいニュースもあった。ブカレスト第一回国際ワインコンクール「赤」で、金賞を受賞したのだ。「ワインの池田」としての実力が評価された受賞であった。
そしてついに、新品種の創出に成功する。
研究所のある丘の名前をつけた。「清見」。
耐寒性にすぐれた「赤」の原料に適した品種であった。ワイン造りとしての、悲願であった。
翌昭和46年に酒類製造永久免許を取得。「十勝ワイン」は、年間醸造量170キロリットルという本格的醸造へと、新たな第一歩を踏み出していた。春には風ばかりが吹く丘であった。冬には凍り付く大地であった。
寒冷地ではブドウは栽培出来ない、そう、言われていた。醸造の前例もなかった。誰もが、難しいと思っていた。
夏には、青々とブドウの葉の揺れる斜面が広がる。今ではその丘をワインを求め、遠く海外から人が訪れる。
「池田」はワインの町となった。
凍り付く風の丘は、それまで誰も、歩いたことのない道であった。
終
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